2010-10-14

気になる釣宿。

12年前に他界した父は、石鯛(釣り)に拘りつづけた人でした。

いつ頃からどんな理由で釣りを始めたのか、釣目の遍歴など聞いたことがありませんが、私が物心が付くころには日曜と言えば石鯛を釣りに出掛けている人でした。

三宅島や八丈島に出掛けるときは、土曜の夜19時位に竹芝桟橋から大きな背負子を担いで東海汽船に乗り込みますし、伊豆方面へ出掛ける時も同じような時間に車で出発していたと思います。
但し、ホームとして圧倒的な釣行を重ねたのが房総で、取り分け鴨川付近の沖磯に渡っていました。

恐らく「子供の面倒もみないで…」という母の苦言に苦虫を噛んでのことでしょうが、真相は不明ながら房総への釣行にはごく稀に幼い私(当時5~6歳か?)を伴ない出掛けました。

当時(ですから35年程前になる)は、千葉方面への高速は武石くらいまでしか開通しておらず、鴨川方面へ行くには京葉工業地帯を横目にズ~と下道をひた走り、姉ヶ崎から山間部を縫って鴨川有料道路を抜け、鴨川に辿り着くというルートです。
鴨川に着くと、駅の改札横にある「両国」という立ち食い蕎麦屋で「月見そば?」を食べるのがお決まりのコースだったと思います。

当時、この蕎麦屋が24時間営業だったかは不明ですが、未明の時間から店は開いていました。
因みにこの蕎麦屋さん、場所は変わりましたが今も鴨川駅の側(エネオスの裏)で営業を続けています。

今、考えると父は途轍もなくタフな人だったんだなーと関心するばかりです。
だって、週休2日なんて無い時代、車だってマニュアル、重ステ、エアコン無しの条件で毎週釣行していたのですから…。

私は私で、釣りに連れていって貰えると、何時もなら起きていてはいけない(存在が許されない)時間に、公に存在することが許される何とも言えぬ高揚感と、東京から異次元に迷い込んだかのように、漆黒の中に浮かび上がる工場の明かりを眺めているのが堪らなく好きでした。

そんな父が当時、足繁く通っていたのは小湊寄浦港です。
父は「竜宮会」なる磯釣り同好会に所属しており、親組織である「全日本磯釣連盟東日本支部」の指定宿がこの港にある "新傳丸(しんでんまる)" さんでした。


鴨川から至近の小湊湾ですが、父は朝マズメには沖磯で糸を垂れていたいのです。
夏場であれば、4時過ぎには船に乗り込み出港します。

幼い私もオレンジ色の救命胴衣をつけて船に乗るのですが、元来、船には弱かったようで、15分もすると気持ち悪くなって吐いてしまいます。
それを眺めていた船長はいつも私に気遣ってくれましたし、帰港すると、港に船長の息子さんを連れてきて、「こいつに教えてもらえ」とシッタカやマダコを採らせてくれました。
中学になって、自転車で房総1周したときにご自宅の離れで1泊させて貰ったこともあります。

ところが、マーケットや経済と同じで「不変」というものは世の中には滅多に存在しません。
それがコマセ釣りの到来によってか、体力的に石鯛を狙うのが辛かったのか、経済的な理由か、はたまた余りにも釣れない石鯛に嫌気がさしたのかは不明ながら、父は石鯛釣りから足が遠のいてしまい、必然、新傳丸さんへ通う回数も減ってしまったのです。
そんな父の晩年は、コマセ真鯛やイサキ釣りに興じていました。

そうして今、父の使っていたクーラーを背負い、父に買ってもらったお古のデッキブーツ(安物)を履いた私が頻繁に海に出ています。

35年を経て、世の中は情報化され、新傳丸さんが今も沖渡しや乗合船を出されていることは予てから知っていましたが、何とも言えぬ後ろめたさがあり、再訪を躊躇っていました。
実のところ、過日の鬼カサゴ船の検索時にも新傳丸がヒットしました。

でも、もうここらで蹴りを付けましょう。
電話を入れて、挨拶をして(女将さんは我ら親子ことを覚えているかな?)、地元の銘菓でも携えて小湊に向かい、船に乗せてもらいましょう。
きっと操船するのは、私にタコ捕りを教えてくれた息子さんです。
そして、今の釣物はフラッシャー(黒ムツ)&鬼カサゴかスルメイカのリレーです。
私の大好きな釣目じゃないですか!

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